森八

金沢に電灯をともした男

12代森下八左衛門が電気事業に初めて関心を抱いたのは、明治22年(1889)でした。静岡県で電気会社の開業式を見て感激し、文明開化の根本をなすものは電気と鉄道だと考え、金沢での実用を思い立ったのです。

まず、親類、知己を勧誘しましたが、「水の力で電気を起こす?そんなばかなことがあるものか」と一笑に付され、賛同するものはわずか1人か2人だったといいます。

金沢電灯会社の創立認可を報じる北國新聞
(明治26年8月5日創刊号)

しかし、八左衛門はあきらめず、犀川上流の水力を利用して電灯をつけようと計画を進め、明治26年(1893)、金沢電灯会社の創立を県に願い出て、認可をうけるまでにこぎつけました。同年8月5日付の北國新聞も、「当時の紳商森下、谷等諸氏の発起に係る金沢電灯会社は目下創立の出願なるが本県庁にては既に定款等の審査を終へ同社に対する命令書を起草して主務省へ稟議中の由なれば主務省の指令次第創立の認可ある筈なりと聞く」と報じています。

ところが、第2代金沢市長の長谷川準也(じゅんや)が、電気事業は公共事業だとして金沢市で経営する方針を打ち出したために、事業を金沢市に譲渡しました。市会は明治27年(1894)、資本金15万円全額を公債とする市営発電所設置案を可決、世論を盛り上げるために兼六園内と尾山神社に、火力による250カンデラのアーク灯がともされました。

しかし、電気事業は市民に十分に理解されず、一方では日清戦争による財政難、市会の分裂、インフレなどの悪条件も重なって、再び民営に移管されることになりました。

これを受け、八左衛門らは明治31年(1898)10月、資本金25万円で金沢電気株式会社を発足させました。八左衛門は1万円を出資し、松岡平三、金井松太郎、鹿海文助、庭田次平、近岡九郎平らと並んで大株主の一人に名を連ねました。

そして、明治33年(1900)、犀川から取水した辰巳発電所から出力240キロワットで送電し、ついに金沢市およびその近郊で2276灯の電灯を県内で初めてともしたのです。

八左衛門はまた、鉄道事業の創設や、七尾湾埋め立て土木会社の設立にかかわったほか、社交クラブ「金谷館」、金沢市立音楽隊などを作り、私財を投げ打って社会事業に貢献、実業界の大立者として「紳商」とも称されました。

金沢の経済の不振に憤った有志が、明治29(1896)7月、金沢実業界を設立。その発起人にも八左衛門の名が見えます。ちなみに八左衛門以外の発起人は、中屋彦十郎、村彦左衛門、亀田伊右衛門、今村勇次郎、奥泉伊六、松岡忠輔、山本直次、渡瀬政礼、宮野政道、吉倉惣左、金丸宅次郎、久保田全、平野小兵衛、石黒伝六、能久治の15人です。

八左衛門は昭和10年(1935)2月11日(紀元節)、地元経済界への貢献が認められ産業功労者として表彰されています。