森八の歴史

加賀藩御用菓子司として

こうして加賀藩御用菓子司としての地歩を固めた三代森下屋八左衛門は、さらに藩より「町年寄」に任ぜられ町人でありながら苗字帯刀さらには城中への参内をも許された。以後も代々の森下屋八左衛門は家柄町人に任ぜられ銀座役なども勤めるなど、加賀藩政とともに二百数十年の治世を歩み続けた。この間、御用菓子司として徳川将軍家や宮中への献上品、他藩との交際、儀礼に用いる品、さらには加賀藩内で行われるありとあらゆる儀礼、行事、冠婚葬祭、茶事茶会の御用などに用いられる菓子のご用命を受け、これに応えるという本来の役割を果たし続けてきた。ちなみにこの四百年間に森八が手がけてきた菓子の種類は、大きく分類して生菓子約千五百種、干菓子約二千種、その他蒸し物、棹物、焼物、求肥物など約五百種、合わせて約四千種にもおよぶ。現在本店に併設されている「金沢菓子木型美術館」に所蔵されている千五百種余りの菓子木型にもその一端がうかがえる。
こうして二百数十年に及ぶ藩政時代を御用菓子司として前田家とともに歩んだ森八はその後新たな時代を迎えることになる。

千歳(ちとせ)
千歳鮓(ちとせずし)扁額(江戸後期)
黒羊羹「玄」
氷室饅頭

明治維新以後の森八

明治期の森八店頭

明治維新によって長く続いた藩政時代は終わりを告げ、藩主だった前田家が金沢を去り、町そのものが衰退しかけたこの時代に、当時の十一代森下八左衛門は懸命に250年続いてきたのれんを守りぬいた。そして明治11(1878)年10月の明治天皇の北陸行幸の際には金花糖製の石橋の菓子を誂えて天覧に供し、天皇はひとしお喜ばれ、東京へ持ち帰ったとの記録が残されている。

その後家督を継いだ十二代森下八左衛門の時、明治19(1886)年11月には宮内省から宮中での食事会に供するための菓子の御用を賜るなど、森八は新たな時代の歩みを着実に始めていた。十二代八左衛門は金沢における文明開化の旗手ともいえる存在で、その象徴の一つが、本店に隣接して建てた木骨コンクリート造り3階建ての洋風建築である。時代の先端を行くハイカラな建物として注目を集めたこの別館で、森八は洋食店を営んだ。メニューは今のデパートの食堂のように幅広く、食事類のほかデザートや飲み物までそろえ、客層を問わず人気があったという。しかし十二代八左衛門の情熱は菓子業よりも社会事業に注がれたようである。十二代は、文明開化の根本をなすものは電気と鉄道だと考え、金沢での事業化を思い立ったのである。事実、十二代は自ら多額の私財を電気事業ほかの社会事業に投じている。

一例としては明治31(1898)年10月、資本金25万円で、のちの北陸電力の前身となる金沢電気株式会社を有志とともに発足させ、そして明治33(1900)年には犀川から取水した辰巳発電所から出力240キロワットで送電し、ついに金沢市およびその近郊で2276灯の電灯を県内で初めてともしたのである。こうして十二代八左衛門は「金沢に電灯をともした男」としての名を残すこととなった。しかしこの社会事業に注力するために家業である菓子業は早々と次の代に譲ったはずだったが、その後継者の夭折という不運に見舞われ、しかも持てる私財をすべて社会事業に注ぎ込んだこともあり、ついには自力での家業継続は断念せざるを得ないこととなった。この時十二代より依頼を受けて森八の家業の一切を引き受けたのが姻戚の中宮茂吉(もきち)であった。