森八の歴史

森八の草創期

森八の初代は大隅宗兵衛(おおすみそうべえ)である。河北郡森下村の出身で、元の名を亀田宗兵衛という。慶長年間(1596~1615)に金沢の紺屋坂に出て、屋号を森下屋と称し、名も八左衛門に改めた。森八の商号は、この森下屋の「森」と八左衛門の「八」に由来する。

大隅(亀田)宗兵衛の祖父は、清和天皇の後胤・亀田小三郎頼周(大永5年・1525年没)の後胤・亀田大隅(亀田岳信あるいは大隅岳信とも称す)である。つまり、森八のルーツは清和天皇の系譜に連なる清和源氏の末裔ということになる。この亀田大隅は加賀一向一揆の指導者の一人として金沢北部一帯を治め、後には豊臣秀吉の配下となり、その孫亀田大隈高綱は、朝鮮征伐にも参加している。その際の武功を誇りとして自らの胴丸に描いた龍玉の紋様が後に森八の家紋となったのである。初代大隅宗兵衛(森下屋八左衛門)が金沢城下の紺屋坂で酒造業を創業しtたのは慶長年間であり、二代が菓子業を始めたのは寛永2(1625)年である。

初代大隅宗兵衛の後を継いだ二代森下屋八左衛門の時、加賀藩の藩命により酒造業から転じて菓子業を創業し紺屋坂から金沢城大手門前の尾張町に移っている。この二代森下屋八左衛門が実質的な森八の創業者であり、寛永18(1641)年に没するまでの間に加賀藩御用菓子司としての地歩を固めたのである。

亀田大隈高綱
森八の家紋「蛇玉(じゃだま)」(龍玉)

「長生殿」の誕生

「長生殿(ちょうせいでん)」は創業間もない頃より現在に至るまで380年以上にわたり森八を象徴する代表銘菓として守り伝えられている。この墨型の御所落雁は加賀藩三代前田利常公が意匠を創案し、茶道遠州流の開祖小堀遠州卿の篆書体の文字をかたどったものである。前田利常公も小堀遠州卿も当時の後水尾天皇をはじめとするいわゆる「寛永文化サロン」の中心人物とされ、さらに後水尾天皇と前田利常公が義兄弟でもあったことからこのような文化的な親交がはぐくまれたのであろう。

この長生殿の誕生は、利常公から江戸表に召された三代森下屋八左衛門が、江戸城の七夕の宴のために落雁を作るよう藩命を受けたときに由来する。小堀遠州卿がこの落雁を賞味して、長生殿の三字を篆書体で彫り込むように利常公に助言し、その命を受けて創製したのである。その出来栄えが藩主の意にかない、長生殿は後水尾天皇に献上され、お言葉を賜るに至った。また、前田家から徳川将軍家にもしばしば献上され、「日本三名菓の随一」と高く評価された。前田家の大きな力添えがあったからこそ、長生殿は名菓としての地位を不動にしていったのであり、前田家と共に歴史を刻んだ菓子ともいえるのである。

長生殿
長生殿木型(天保10年)

ちなみに、前田家十六代当主前田利為氏の長女・酒井美意子氏が著した『加賀百万石物語』には、「森八の『長生殿』は、利家が秀吉に献上したのが始まり」と書かれている。歴史資料等の記述にまでは触れておられないが、前田家の中で語り伝えられてきた「歴史」なのかもしれない。いずれにしろ、長生殿が誕生する相当以前に、原型となる菓子が存在していたことをうかがわせる興味深い記述といえよう。